§201.

§202. ⇒

英語原文

1. In epic poetry, when the independent subjunctive has nearly the sense of the future indicative (284), it sometimes takes κέ or ἄν. This forms a indicative with κέ or ἄν, and someteimes approaching the optative with κέ or ἄν. Eg.

Εἰ δέ κε μὴ δώῃσιν, ἐγὼ δέ κεν αὐτος ἔλωμαι, and if he does not give her up, I will take her myself. Il. i. 324 ; see also i. 137.

See 285 and 452. For the variety of nearly equibalent future potential forms which the Homeric laguage presents, reduced to one in Attic Greek, see 235.

2. The epic language has κέ or ἄν with the subjunctive in the constructions of 192, 2 ; but its use of κέ or ἄν in condirions is less strict, and that with final particles is more free, than the Attic use of ἄν.

See 325-328 ; 450-454 ; 468-471 ; 538-541.

日本語解釈

1. 叙事詩において、主節または主文で接続法が直説法未来に近いニュアンスで使われるとき、しばしば κέ ἄν を伴って使われる。 このような組み合わせは可能性を表わし、 κέ ἄν を伴った直説法未来とほぼ等しい内容となり、時としては κέ ἄν を伴った希求法の形をとる。 例えば

Εἰ δέ κε μὴ δώῃσιν, ἐγὼ δέ κεν αὐτος ἔλωμαι

万一にも渡さなければ、私が自身で大勢の者を率いて出かけ、ってこよう。

『イーリアス』, 1.324, 呉 茂一 訳(なお『イーリアス』, 1.137も参照のこと)

δώῃσινδίδωμιの三人称/単数/第二アオリスト/接続法/能動態。 SMYTH(2706)では、「接続法は意志を示す法(mood)なのでμήを取る」とあり、この場合も単に接続法で表されている動詞を否定していると思われる。

※ 原著では『イーリアス』, 1.137だが、これは1.139まで3行にわたった内容で

ἐι δέ κε μὴ δώωσιν, ἐγὼ δέ κεν αὐτὸς ἕλωμαι
ἢ τεὸν ἢ Αἴαντος ἰὼν γέρας, ἢ Ὀδυσῆος
ἄξω ἑλών· ὁ δέ κεν κεχολώσεται, ὅν κεν ἵκωμαι.

もしまた十分よこさん場合は、私が自身で取り立ててやるぞ。
きみの分け前なり、アイアースのなり、またオデュッセウスの分け前なりを取って来てやる。
私にやって来られた男は、さぞ腹を立てることだろうがな。

呉 茂一 訳

となっている。 δώωσιν δίδωμι の三人称/複数/第二アオリスト/接続法/能動態、 ἕλωμαι αἱρέω の一人称/単数/第二アオリスト/接続法/中動態。

140行目で κεν と組み合わされている κεχολώσεται χολόω の三人称/単数/未来完了/直説法/中動態または受動態、 ἵκωμαι ἱκνέομαι の一人称/単数/第二アオリスト/接続法/中動態。

285 および 452 の議論も参照のこと。 ホメーロスでは現在形を用いて表現される未来の可能性とほぼ等しい構文は、アッティカ方言では一つに集約していった。 これについては 235 を参照のこと。

2. 叙事詩の表現には192, 2で見たような構文において κέ または ἄν を伴う接続法の用法が見られる。 しかしこれらにおいての κέἄν の用法はあまり厳密に規定されていない。 さらにこれらを伴った目的節での分詞の用法は、アッティカ方言による ἄν の用法よりも自由に使われている。

これらについては、以下の項目も参照のこと。


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