ワークショップの趣旨は「あなたはあなたのままでいい。あなたの感じていることを表明してシェアできる場所を作る。」ことです。 ぶっちゃけていうと、雑談です。
ギリシア神話をお話ししていくときに、アカデミックな解釈などを非常に気にされる方がいます。 もちろん、それはそれでいいのですが、もっと、自由に神話を楽しんで欲しいな、とも思うのです。 私たちは、小説やマンガを楽しむときに、アカデミックな解釈をあまり気にしていませんよね?
アカデミックな議論というものは、専門家または、そういう議論をしたい人に任せておけばいいのではないか、というのが私の個人的なスタンスです。 逆に、神話そのものを読む方が少ないのは、そのように気軽なスタンスが少ないからではないか、とも思っています。 そのことを、非常に悔しく思っています。
私自身、とても「正しさ」にこだわっていた時期が長くありました。 小さい頃に、てんかんの発作を起こしたことがあるのです。 私が小さい頃は、てんかんといえば「キ○ガイの軽いの」という認識でした。
てんかんそのものは、十代の半ばで専門医から完治といわれました。 そのころは、まだ自分の存在に悩むということはありませんでした。 しかし二十歳になって献血をしようとしたとき、てんかんの既往症があることから「痙攣体質」を理由に献血を断られました。 とてもショックでした。 大学で友人にそのことを話したら「あぁ、そうかもね。」と軽く言われたことが、ショックを更に強くしました。
断られた医学的に正確な意図はともかく、私には「キ○ガイの血はいらない」というメッセージに聞こえたのです。 私の中で「正しさ」が非常に大きな価値観になりました。 正しくなければ、それは私が狂っていることだ。 いつしか、そう強く思い込むようになっていました。
そんな状態でしたから、人を好きになることもありませんでした。 ルックスのどこが悪い、行動のどこが悪い、そんなことばかり探していたのです。 やっと人を好きになったときは、三十を超えていました。 そして、すぐに別れてしまいました。
私は「正しい」はずだ。 その人のことが許せませんでした。 「どちらも正しい」と思えるようになり、その人のことを許せるようになるまで、十年以上の歳月が必要でした。
他の人たちが、そんな不毛で無駄な時間を過ごさなくなるためには? 対立する意見がどちらも正しいことを認め、お互いを尊重できる場をどうやって作ったらいいのか? そういう場を私は知りませんでした。 私がそれを作るとしたら? ギリシア神話を題材にすることは、あまりにも自然な流れでした。
ワークで取り扱う神話の分量は、非常に少ないものです。 神話をよくご存じの方にとっては、物足りないくらいでしょう。 それでも、そのとき調べた出典は必ず明記するようにしています。 ですからワークで使われる物語が、「出どころがわからない物語」ということはありません。
ワークの中心は、ディスカッションです。 その人が、物語や登場人物にどのような印象を持ち、ご自分がどのように考えているか、をシェアしあいます。 何が正解で何が不正解ということはありません。 従って、ワークの進め方は以下のようになります。